元大相撲力士・逸ノ城駿の現在と歩んできた軌跡の全貌
2026年現在、大相撲ファンやスポーツメディアの間で今なお語り草となっている元大相撲力士・逸ノ城駿(いつのじょう たかし)。モンゴルの大草原で育った少年が日本の角界に飛び込み、圧倒的な巨体と天性の才能で最高位・関脇まで登り詰めた足跡は、大相撲の歴史において異彩を放っています。本記事では、モンゴルでの遊牧民時代から鳥取城北高校への相撲留学、数々の名勝負を生んだ現役時代、そして引退に至るまでの背景や現在の動向に至るまで、信頼性の高い公式データと一次情報を基に徹底的に解説します。
当時の入門の経緯や、師匠である故・湊親方や一門の横綱らからの指導、そして同期や関係者たちの証言を紐解くことで、怪物と称された「イチコ」の知られざる素顔と相撲人生の本質に迫ります。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:モンゴル・アルハンガイ県の遊牧民出身で、14歳でブフ(モンゴル相撲)の県大会を制した素質を持つ。
- 要点2:鳥取城北高校への相撲留学を経て、湊部屋から大相撲へ入門し、西前頭筆頭での初っ端からの大活躍や最高位・関脇まで昇進。
- 要点3:度重なるケガや相撲への向き合い方の葛藤を経て、2023年に惜しまれつつ現役を引退。
モンゴルの大草原から始まった少年時代と運命の出会い
元大相撲力士・逸ノ城駿(本名:三浦駿、旧名:アルタンホヤグ・イチンノロブ)は、1993年4月7日にモンゴル国アルハンガイ県バットツェンゲル村で生まれました。ウランバートルから400キロ離れた草原地帯で育った幼少期は、まさに生粋の遊牧民としての生活でした。ヒツジやヤギなどの家畜を飼育し、季節ごとに移動する過酷な環境の中で、毎日のように馬の生乳を2リットルも飲むなどして頑健な身体が作られていきました。
学校がある時期には、弟や妹と共に自宅のゲルから20キロ離れた村のゲルで共同生活を送る日々。「ヒツジを狙ったオオカミがやって来たときなど、夜中に起きなければならなかったのが大変だった。でも馬に乗って走ることとか、楽しかった」と、本人はのちに少年時代を懐古しています。幼少期から親しんできたブフ(モンゴル相撲)では、14歳の時にアルハンガイ県大会で優勝するなど、その片鱗を早くから見せていました。来日直前の3か月間はウランバートルに住んで柔道にも取り組んでいました。
人生の転機となったのは2010年、鳥取城北高校相撲部の石浦外喜義監督によるスカウトでした。働き手である長男を手放すことを案じた母親の反対を押し切っての来日でしたが、同じ飛行機にはのちに横綱となる照ノ富士や水戸龍も乗っており、同じ柔道道場に通っていた縁もありました。
鳥取城北高校での過酷な修行と「イチコ」の誕生
石浦監督は当時の印象について、「相撲留学を希望して集まった子供たちの中にいたのが彼だった。目立たない優しそうな子、というのが第一印象。ただ、傑出した太ももの太さに目を見張った」と後年の著書などで語っています。当時の太ももは凄まじい太さだったものの、肩や胸の筋肉の張りや締まりはまだなかったといいます。この頃から周囲に「イチコ」という愛称で呼ばれるようになりました。
しかし、来日初期の逸ノ城は決して順風満帆ではありませんでした。遊牧民としての生活が長かったため学校教育の経験が乏しく、標準語のモンゴル語も話せない状態からのスタートでした。日本語の習得や日本の規律に馴染むことには非常に苦労し、石浦監督からも「日本語ができないと、帰らなくちゃならなくなるぞ」と厳しい指導を受けています。水戸龍の証言によれば、「入ったばかりのイチコが女子部員にすら勝てなくて、コーチや監督に怒られて泣いていたんです。慰めて元気づけたら次の日にはがらっと変わって、今度は誰にも負けなくなった」と、その驚異的な適応力と負けん気の強さを明かしています。
最初は相撲が非常に弱かったことから、石浦監督は「今のままでは勝てないから、もう相撲はやらなければいい。とにかく四股を踏んでおけ」と指示。あらゆる稽古の中で四股が一番嫌いだった逸ノ城ですが、監督に無理やり、そして徹底的に四股を踏まされた結果、下半身の強さが飛躍的に向上し、高校2年・3年時には全国大会などで合計5つのタイトルを獲得するまでに成長しました。
逸ノ城駿の主な経歴・年表データ
| 時期・年代 | 主な出来事・キャリアの節目 | 詳細・備考 |
|---|---|---|
| 1993年4月 | モンゴル・アルハンガイ県で誕生 | ウランバートルから400km離れた草原の遊牧民家庭に育つ。 |
| 2010年 | 鳥取城北高校へ相撲留学 | 石浦外喜義監督に才能を見出され来日。同期に照ノ富士や水戸龍がいた。 |
| 2013年〜2014年 | アマチュア相撲での活躍と湊部屋入門 | 実業団や国体等で実績を重ね、湊部屋へ入門。幕下付出などを経てスピード出世。 |
| 2014年9月場所 | 新入幕で歴史的快進撃 | 初土俵からわずか場所数で新入幕を果たし、横綱・白鵬らを破るなど優勝争いに絡み大旋風を巻き起こす。 |
| 2018年7月場所 / 2019年5月場所 | 最高位・関脇に昇進 | 卓越した巨体と圧倒的な力量で三役の常連となり、東関脇の地位に就く。 |
| 2022年7月場所 | 幕内初優勝を達成 | 怪我や苦難を乗り越え、悲願の初土俵からの幕内最高優勝を果たす。 |
| 2023年 | 現役引退 | 腰痛などの怪我や体調面の影響により、惜しまれつつ現役生活に幕を下ろす。 |

角界席巻の衝撃:モンスターと称された幕内での軌跡
鳥取城北高校を卒業後、実業団等を経て湊部屋に入門した逸ノ城は、大相撲の土俵でもその異次元の才能を爆発させました。初土俵から驚異的なスピードで番付を駆け上がり、2014年9月場所の新入幕では、当時の横綱・白鵬をはじめとする強豪力士たちを次々と圧倒。優勝争いのトップを走るなど、日本中に関取としての存在感を轟かせました。「怪物」「モンスター」という異名がつけられ、その動向は連日ワイドショーやスポーツ紙の一面を飾りました。
無駄な力が入っていないように見える独特の立ち合いと、192cm・224kgの巨体から繰り出される重みのある寄りは、対戦相手にとってこの上ない脅威でした。一方で、その才能ゆえに周囲からの期待も非常に大きく、厳しい目が向けられることも少なくありませんでした。
2016年4月10日の春巡業静岡場所では、一門の横綱である鶴竜から土俵脇で「居残り説教」を受ける場面もありました。「せっかくいい体を持っているのだから、もっと鍛えて余分な脂肪を落とさないと」「朝稽古だけが稽古じゃない。他にもたくさん時間はある。自分で考えなきゃ」「今やらなきゃいつやるの」と、一門の若手として期待を込めた魂の指導がなされました。この鶴竜の言葉に逸ノ城は深く頷き、「言われたことを頭で考えてやれるようにしたい」と気を引き締めていました。
最高位・関脇から悲願の優勝、そして引退の背景
怪我や体調の波に悩まされながらも、逸ノ城は粘り強く土俵を務め上げました。2018年7月場所および2019年5月場所では、自身の最高位である「東関脇」に昇進。上位陣を撃破する実力を証明し続けました。
そして迎えた2022年7月場所では、万全ではない体調でありながらも抜群の相撲勘と巨体を活かした巧みな取り口で見事に幕内初優勝を成し遂げました。この戴冠は、モンゴルの草原から単身来日し、幾多の試練を乗り越えてきた努力が実を結んだ瞬間として、多くの相撲ファンの記憶に深く刻まれました。
しかし、長年の激しい稽古による腰痛をはじめとする慢性的な怪我や身体への負担は蓄積しており、惜しまれつつも2023年に現役引退を決断。大相撲の歴史に確かな足跡を残し、土俵を去ることとなりました。

【逸ノ城】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:逸ノ城の最高位は何ですか?
A1:最高位は東関脇です。2018年7月場所と2019年5月場所の2度にわたり関脇の地位に就いています。
Q2:来日前のモンゴル時代はどのような生活を送っていましたか?
A2:ウランバートルから400キロ離れたアルハンガイ県で遊牧民として育ちました。ヒツジやヤギの放牧を手伝いながら馬の生乳を飲む生活を送っており、14歳の時にはブフ(モンゴル相撲)の県大会で優勝した実績を持っています。
Q3:鳥取城北高校時代の同期や関係深い力士は誰ですか?
A3:同じ飛行機で来日し、同じ柔道道場に通い、寮の部屋も同じだった照ノ富士や、高校時代に苦楽を共にした水戸龍などが挙げられます。
まとめ:今後の動向と稀代の力士が残した足跡
モンゴルの大草原で遊牧生活を送っていた一人の少年が、日本相撲協会の土俵で横綱・大関を脅かすモンスターへと成長し、関脇という高みに到達した軌跡は、まさにドラマそのものです。言葉の壁や文化の違い、女子部員にも勝てなかった相撲初期の挫折を乗り越え、四股という地道な基本稽古によって開花した才能は、後進の力士たちにとっても大きな指針となっています。
2026年現在も、その圧倒的な存在感と数々の名勝負はファンの間で語り継がれており、大相撲史における異色の名力士として永遠に記憶され続けるでしょう。 (出典: 逸 ノ 城(Yahoo!ニュース))